楚州如宝禅師篇著

 黄檗開山隠元國師傳畧衍義


〔解説〕 
  本書は、宗祖年譜や行実を元に
、御一代記として弘化二(1845)年に仮名書きで作成された書です。
  仮名書き御一代記は、宗祖示寂30年後の元禄11
(1701)年、すでに懐玉道温が『黄檗開山普照国師隠元和尚傳』を出版していますが、それ以来のことです。
  著者楚州如宝は黄檗山第32代住職を拝命し、将軍への御礼言上のため登城をする間、
江戸の宿舎でこれを書き上げたとされています。
  かなりの長文ですが、少しずつアップしていきます。

〔凡例〕
 ○ 漢字、ルビ等、原本通り掲載しています。
 ○ 序文は和漢文ですが、和訓は割愛し、意訳のみ付記しました。 
 ○ 本文は、仮名書なので注書きの掲載のみに留め、漢文部分は( )書きで和訓を挿入しました。
 ○ 本書中、隠元禅師のことを全て「国師」と表記しているので、注書き等もそれに倣っています。
 ○ 注記引用文献の中で、(全)とあるのは、平久保章著『隠元全集』のことです。
 ○ 原文は国師の年令で区切られていますが、茶色文字の標題を付け解りやすくしました。


 
黄檗開山隠元國師傳畧衍義 目次

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 序文 
  楚州如宝禅師が、この書を書こうと思いたった所感を率直に記している。

 国師生誕、1592年の項 
  国師の生い立ちと、関係者の記憶が書かれている。

 宗祖6才、1597年の項
  父は遠くへ出たまま帰らず、母への孝行を楽しみにする。

 
 宗祖9才、1600年の項 
  国師、社学に通う。 五経をすらすら読んで皆を驚かす。

   



 序文

 
 黄檗普照國師傳畧衍義訓譯序

   

所傳語録波瀾浩汗匪淺見所能涯涘貽諸後代以待賞音者也

  ▽ 伝えられている語録は、波瀾万丈で輝いており、浅見後学の者がその果てを見通すことなど出来るものではない。
 
 (したがって、)全てを後世に伝え、優れた内容を何時かは聞かせて欲しいものである。


 

唯若其行状此 國師一生真踐實履之處且一片為法迫切之至心也

  ▽ ただ、そこに書かれた行状の様は、国師が実際に実践された行いであり、僅かのことでも法のために差し迫った気持ちで行われた行為である。



凡係法派者當讀此知盛德嘉言之所述也奉先報本之務莫先爲

 
  ▽ だから、国師の法を受け継ぐ者は、この書を読んで語録に記された国師の優れた徳を知るべきである。
  先ずもって敬い、国師の恩に報い、その務めを果たすほかにはないのである。



 

他慕其道崇其宗者亦當讀此知我躬已受法施也勝果之因莫最爲所

 
  ▽ 国師の歩まれた道を慕い、その精神をあがめる人は、まさにこの書を読んで、自分がすでに国師の法をいただいたと感ずるべきである。
  悟りを得るなら、為す以上のことはないのである。


 

憮我 東方俗踈於文凡書籍教之國人也加鬚於字側以授之而尚廢於其難率束之高閣  

 
   ▽ 残念なことに我等日本人は漢文に疎いことである。
  そこで読者には書籍に鬚のような補足の字を付け、読みやすいようにした。折角の書物もいずれ積み重ねられるばかりだからである。

 〔注〕【束高閣】[晋書庾翼伝]庾翼(ゆよく)が名士として著名な杜乂(とがい)と殷浩(いんこう)の書を、高い棚の上に放置した故事から、書物などをたばねて壁につるした竹製の書棚に置いたまま利用しない状態。書物や有能な人物を久しく使用しないこと。



滔ゝ皆是 公廰申文移牒至凡平常人事皆倭文行之非倭文不便于世即倭文製有数等 

 
  ▽ その流れで、官公庁の文書や通知文からおよそ平常の文書や社会全般の文書に至るまで、なんでも日本文においてはこれを行っている。
  日本文でなければ日本社会では不便である。つまり、日本文といっても、その作り方には色んな方法がある。



試使其讀以倭則曰少易也以漢則曰難又難也

 
  ▽ 実際、その文章を読んでもらうのに、日本文でするときは易しすぎると言われるし、そうかといって漢文で書くと、書くほうも難しく読む人もまた難しいといわれる。


 
 

嗟矣不能讀書觧其義若隔靴搔痒也不能對書読其字若墻面而立也其可不惜且憫邪

  
  ▽ なんと言うことか、書物を読んでその意味が理解できないというのであれば、もどかしいことこの上ないではないか。
  書物を開きながら、その文章が読めないと言うことは、目的地に着きながら垣の前でおろおろと立っているようなものだ。
  なんと惜しくもあり、あわれすら感ぜずにおれようか。



至志在祖道圖業於不朽者必不止於斯四海書無不讀矣萬物理無不窮矣摧伏外道扶護宗乗皆是已 

 
  ▽ 私たちの志は、祖師の教えを学ぶことにある。
  仕事を生涯掛けて貫こうとする者は、一つのことのみに留まらず、この世のあらゆる書物を読まないと言うことがあろうか。
  宇宙一切の真理を窮めないなどということがあろうか。
  邪説を説く者たちを退け、正しい教えを守ろうとするのは、皆そのためである。


 

念 國師之道何其發源之遠滋物之廣亘千百世有光於天下國家也

  ▽ 思うに、国師の示された道の、その源を探ると、なんとしてか遠く、万物を潤す力は広大で、千百世にわたって天下国家に光り輝くことであろう。


 

諒非世稱一流宗匠自守門戸者之所擬然則於其行業寧敢忽而不讀者哉

  ▽ 実際の所、禅界で黄檗派の管長と称して、自ら寺門を背負っている小衲であっても、疑いを向けるところなど無く、そうであるならば国師の行業において、それほどに急いで読まなければならないものであろうか。


 

其先有美而不知不明也知而不傳不仁也雖傳不淂令人ゝ能読之亦不智也

 
  ▽ その先に素晴らしいものがあるのに知らないということは識見の無いことであるし、それを知っていながら伝えないのは慈しみのないことである。
  また伝えるといっても人々が読みたくなるようにしなければ思慮のないことである。


 

我 東方俗踈於文况初心蒙劣不能盡読者衆乎

 
  ▽ 私たち日本人は漢文に疎く、ましてややっと読める程度であるから全てを読み尽くすことの出来ない者は多い。


 
 

故余不得巳併校其年譜行實高僧傳碑文等就廣取略易華為倭錯綜其語演繹其義以欲使士庶之遠於文近於道者與僧流之文與道倶遠者各無面墻之患而由是終入於道而已

 
 
  ▽ そこで衲(わたし)は、やむを得ないことであるが、国師の年譜、行実、高僧伝、碑文等を校合して、広いところは簡略に、中国的なところは日本的に変え、混じり合わせ意味が分かるようにし、一般人には文字の苦手ながらも仏法を知りたいという人たちや、僧侶でありながらも文字にも道にも遠い者たちとが、それぞれに見聞の知識のなさに憂えることのないようにし、禅の道に入ってもらおうと欲したところである。


 

夫超倭之華去俗求雅舎易取難便志士本色已余則逆行此令

  ▽ それは日本の枠を超え中華の思想に迫ろうとしたもので、また世俗の世界観は捨て禅本来の雅さを求め、易きに流れるのではなく、難解な面を取ったのである。
  丁度志ある僧侶本来の精神にそったもので、衲は逆行きの方法を採ったのである。


  

其以為大雅罪人邪余固非文字流其以為玷汚名徳邪

 
  ▽ したがって国師の気高さを毀す罪人となるのではないかと思う。
  衲はもともと、文学に長けているわけでもなく、国師の名や徳を汚すのではとも思う。


 

國師道如日月余難不肖欲酬萬分慈蔭漏一片婆心焉已矣

 
  ▽ 国師の示された道は日月の如きものであるが、衲は不肖ながらも国師のご恩の万分の一でも報いたいと思ったところだ。
  そこで、一片の老婆心を披瀝するのみである。



 維旹弘化二年乙巳夏四月
  黄檗沙門楚州寳書於東都僑舎

  
  ▽ 維時 弘化2(1845)年4月夏
    黄檗山
(第32代)沙門楚州如宝
              東京都の宿舎にて書す。


  
     



 
 国師生誕

 
   

大明
(ミン)神宗皇帝萬暦二十年壬辰    本朝文禄元年。

  國師諱ハ隆琦、号ハ隠元。 福州府福清縣東林ノ人ナリ。 父ハ林徳龍、母ハ龔氏。 賢行アリ施行ヲ喜
(コノ)メリ。 兄弟三人アリ國師ハ其ノ季(スへ)ノ子ナリ。 是ノ冬十一月四日戌ノ時ヲ以テ誕(タン)生シ玉ヘリ。

 
 
 
〔注〕 
【福清縣東林ノ人】 宗祖生誕地は、年譜に拠れば福州府福清県万徳郷霊得里東林(現在の福清(ふくせい)市上径鎮(じようけいちん)上径市東林)で、石垣島とほぼ同じ緯度に在り、海岸部から十キロほど内陸部に入った非常に温暖な気候の農村地帯である。村の北側には広大な山林が広がっている。
【戌ノ時】 午後8時頃。



  參藩ノ官沁齋陳公カ、國師ノ壽ヲ祝スル文ヲ按ズルニ、其ノ畧ニ曰ク。
  黄檗隠大師其生也與予同年月其長也與予同艱苦及其壮予則浮沈宦海之波而師獨佩少林之印丕振宗風普利羣品宜其慧命法身超乎天地而長存者也
(黄檗隠大師、其の生ずるや予と年月を同うし、其の長ずるや予と艱苦を同うす。 其の壮なるに及びて予は則ち官海の波に浮沈す。 師は独り少林の印を佩(お)びて丕(おおき)に宗風を振い普く群品を利し宜(むべ)なり。 其の慧命(えみよう)法身(ほつしん)天地に超えて長く存するなり。)

   
〔注〕〕
【参藩(さんぱん)】 明滅亡後に南へ亡命した雲南の「平西王」呉三桂、広東の「平南王」尚之信、福建の「靖南王」耿精忠の諸政権(南明)をいう。
【沁齋陳(しんさいちん)公】 参藩官吏の中でも福建の「靖南王」耿精忠の官吏であったと思われる。 「黄檗和尚七袠壽章」(宗祖は寛文元年11月4日に70才の誕日を迎えた。全P5332)によれば、肩書きは、「賜進士朝議太夫四川布政使司右参議分守川北道前南京戸部尚書郎専鹽政奉勅監督州鈔關江西分闡考試官仏弟子陳從教。」
【按ずる】 あれこれと考えを巡らす。
【壽ヲ祝スル文】 70才の誕日を迎えた時、国内外から多くのお祝いの文が宗祖の元に届けられ「黄檗和尚七袠(しちじ)壽章」(袠は十の意。秩と同じ。)としてまとめられた。 その中の一つ。 宗祖が多くの人から敬慕されていたことが窺われる。
【少林】 少林とは菩提達磨大師を輩出した河南省登封県少林寺のことで、禅宗の祖庭。 ここでは禅門の意。
【慧命】 智慧を生命に喩えた語。 比丘の尊称。


  又東閣大學士ノ官魯菴劉公名ハ沂春國師廣録ノ序ヲ撰ス  ノ祝文其ノ略ニ曰ク。
  萬暦壬辰冬一陽初動二気始交見天地之心位貞元之會靈根美而妙用㴠是謂隱大士初度之辰云
(万暦壬辰の冬に一陽初めて動き二気始めて交わる。 天地の心を見れば貞元(じょうげん)の会(え)に位す。霊根美にして妙用㴠(うるお)す。 是れを隠大士初度の辰と謂うと云う。)



 
〔注〕
【東閣大學士】 内閣大学士は、中国明朝、清朝期の官職名。 当初は単なる相談役で権限はあまりなかったが、後には国政を行う大臣に匹敵する大権を行使していた。
【魯菴劉公】 賜進士第資政太夫正治上卿東閣大學士太子少傳吏部尚書前南京吏部右侍郎晉一級掌部事都察院左副都御史白雲居士劉沂春(ぎしゆん)。 国師廣録の序文を記した方。
【貞元の会】 四柱推命の聖典「滴天髄」に出てくる言葉。詳細は不明。
【初度】 誕生日。

     
 宗祖6才、1597年の項

   
  二十五年丁酉
  
本朝ノ慶長二年明年戊戌豊臣秀吉薨
  國師年六歳。家君
(チチ)遠ク楚ノ国ニ遊テ未ダ歸ラザレバ、ヒタスラ母公ニ事ヘ玉フテ至孝ナリ。
  家業淡白ナリト云ヘトモ、家兄ト共ニ艱
(カン)苦ヲ受テ猶懐ニ掛ケス、孝養ヲ以テ楽トナシ玉ヘリ。

   〔注〕
【家君】 父のこと。
【楚国】 湖南省、河北省地方というが、具体的にどの方面を指すのかは不明。
     
 宗祖9才、1600年の項

   
  二十八年庚子。
  國師年九歳。 初テ學舘ニ就
(ツ)イテ經史ヲ五経史記等ナリ讀ム。 朱點ニ順(シタガ)テ句読ヲサダメ玉フ。 時ノ人、其ノ夙(ツト)ニ霊根アリシヿヲ驚嘆(キヨウタン)セリ。

   〔注〕
【學舘】 年譜には「社学」とある。 平久保章氏は、著書『隠元』で、光賢里に在る中峰社学のことで潮音寺だとされているが、今日、地元では宗祖が通ったのは地元上径鎮(じようけいちん)の印林寺と言い伝えている。
【五経】 五経または六経は、儒教で基本経典とされる五種類または六種類の経書の総称。『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』の六経から、はやくに失われた『楽』を除いたものが「五経」。
【時人・・・ 云々】 塔銘では、宗祖の家系は福建省閩(びん)地方の名家で代々詩書を守っていた家柄だと記している。 従って、少なくとも宗祖は幼少期から詩書に慣れ親しんでいた事が窺われる。

     
     
     
                        ( 続 く )